法を守ることの二重性——『ソクラテスの弁明』『クリトン』における法と正義

Duality of Obeying the Laws – Law and Justice in Plato's Apology and Crito

First published Tue Sep 8 19:34:00 2015 +0900 ; substantive revision Wed Jan 27 15:31:08 2016 +0900 ; Authored by nolze (drafted in "Topics in Ethics", University of Tokyo, 2015)

Tags : 法 正義 倫理 ソクラテス

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序論

 法に附随する刑罰の基本的な役割のひとつはその法を遵守させるための威嚇的抑止力であり、もうひとつは違法行為に対する応報である。法と法に附随する刑罰の両方を考慮に入れるならば、法を守るということにはふたつの水準が考えられる。第一の水準は—これが法としては端的に想定されているのであるが—その法の命じるところを遵守するということである。法を執行する民主的な一連のシステムのうちで、第一の水準で法が守られているかどうかは法廷で争われることができる。プラトンの対話篇『ソクラテスの弁明』は、まさにこの場面を描き出すものである。

 これに対して第二の水準は、違法行為に対する応報としての刑罰を受けるということである。具体的には、例えば、違法行為を働いたのち刑罰を受けている人と、違法行為を働いたのち逃亡を続けている人を比較してみればよい。両者とも違法行為を働いたという第一の水準では同じく法を守っていない。しかしながら、両者の間には明らかに何らかの違いがあって同一視することはできないように思われる。この差異が第二の水準に関わるのであって、望んでであれ、望まずであれ、前者は第二の水準において法を守っているが後者は守っていない。

 通常は—現代では殊更—第二の水準で法を守るということは暗黙的になされる。なぜなら、第一の水準に関しては、法を守るかどうかということが現実的に意志によって自由に決定可能であるのに対して、第二の水準に関して、違法である行為に対する刑罰を受けるかどうかということは法を執行する一連のシステムのうちではまったく自由に決定できるものではないからである。逃亡したり脱走したりすることで法を執行する一連のシステムを逸脱しない限り、刑罰を受けることは必然的である。現代ではこれらは第一に困難であり、実現しても時効のような特殊な期限を迎えるまでは常に例外的な状況であるにすぎない。

 しかしソクラテスの裁判に関して言えば、『弁明』に続く『クリトン』においては事情が異なる。現代と当時のアテナイの違いが背景にあるともいえるが、ここではクリトンによって脱走して刑罰を回避することがきわめて現実的な選択肢として提示され、その結果第二の水準で法を守ることが問題として顕在化してくる。

 本論では、法を守ることの第一の水準および第二の水準という観点を足がかりに、プラトンの対話篇におけるソクラテスが法を守るということについてどのような立場をとっているのかを検討する。

本論

 『ソクラテスの弁明』および『クリトン』において、ソクラテス自身の問題として法を守るということが問題になっているのは、『弁明』でソクラテスが経験として語る将軍の一括裁判の評決 (32b) とサラミスのレオンの逮捕 (32c)、そしてソクラテスの、『弁明』で断罪され『クリトン』に至る、哲学の活動である1

 将軍の一括裁判の評決 (32b) においては、まず、アルギヌーサイ沖海戦で海に落ちた兵士を収容しなかったとしてアテナイ市民の憤激をかった将軍たちを一括して裁くことが評決されたのであるが、被告を一括して裁くことは「法に反していた」ためにソクラテスはこれに反対した。ここでは、ソクラテスが「法と正義とともに危険を冒さなければならない」と述べている通り、法の命じるところはソクラテスの正義と一致している。一方で同時にソクラテスは、反対することで「弾劾し、連行させ」られ「逮捕と死」に至りうる見通しを持っていたが、違法なのは端的に一括裁判の評決のほうであるのだから、これは違法行為に対する応報としての刑罰ではないのである。

 また、サラミスのレオンの逮捕 (32c) においては、寡頭政権を指導する三十人委員会によってソクラテスはサラミスのレオンを連行するよう命じられるが、これを「不正なこと」であるとして拒否した。ここでは恐怖政治を行なう寡頭政権のために、法を執行する政治体制自体が動揺しているのであり、この命令がアテナイの法に反するのか反しないのか、それともいまやこの命令自体が法とみなされるのか判然としない。これについて Weiss (1998) は、ソクラテスはこの命令を法とは見なしておらず、ゆえに法に関する判断を挟まずに単に自らの正義に従っていると解釈している。拒否することで政権によって死刑に処されうる見通しをまたソクラテスは持っていたが、この解釈に従うなら法は何も命じていないのであり、この予期される刑もまた違法行為に対する応報としての刑罰ではない。

 この二つの事例から、ソクラテスは、正義と一致する法を明確に第一の水準で守るべきであると考えており、また、特に法が命じるところのないときは正義に従って行動するべきであると考えているといえる。

 では、『弁明』『クリトン』の全体をなす、最大の事例であるところのソクラテスの哲学の活動が裁かれる場面においてはどうだろうか。

 『弁明』を通じて弁じられる通り、ソクラテスは自身の活動が何からの法に照らして端的に違法であったとは考えていない。しかし、活動によって少なくない人々から非難されるようになったとは認識しており (24a)、訴訟を起こした「最近の告発者」に並べてソクラテスを非難してきた「以前からの告発者」(18d-18e) を挙げるように、告発とは無縁でない状況にあることは理解していた。さらにソクラテスは、真の法律の知識が裁判を担う民衆にあることに必ずしも肯定的であったわけでもなく (24e)、少なくとも訴えられても確実に無罪になるとは考えていなかったように思われる。それでも「法に従って弁明しなければなりません」(19c) といった発言にみられるように、ソクラテスは訴えを受けて裁判に参与することを法を守ることと考えている。

 結果的にはソクラテスの主張に反して、裁判を通じて法の命じるところはソクラテスの正義と一致しなかった。その命じるところは内容としては「非難と恨み」(28a) による刑罰なのであるが、ソクラテスが法に適っていると考える裁判によって決められた以上、形式的には違法行為に対する応報としての刑罰として妥当することになる。ここに至って法の命じるところはソクラテスにおける正義と決定的に対立するのであるが、ソクラテスは有罪を予期さえするような仕方で「皆さんよりもむしろ神に従うことでしょう」(29d) と表明することで、法を第一の水準で守ることをいまや断念している。

 第一の水準で法を守ることを放棄したことで、第二の水準が『クリトン』において問題になる。ソクラテスに脱走を促すクリトンは、脱走を正当化する根拠として、上述の通り判決が内容としては不正であることを訴えている。

 これに対してソクラテスは、「国法」の語るところとして、「国家が下した判決は何であろうと忠実に守るということが同意されていたのではないか」(50c) と自らに問い、これに同意する。内容として不正な判決であっても、法に適った仕方で「国家の中でいったん正義として下された判決」が個人によって破棄されてしまうようになれば、もはや国家は維持されえないのであり、アテナイの国家を受け容れてきたソクラテスにとってそれをすることは不正をなすことに他ならない (50b)。

 ソクラテスは、「今もしお前がこの世を去るなら […] お前は不正をこうむった人間として去ってゆくことになるだろう。しかしそれは […] 人間たちによってなされた不正にとどまるのだ。[…] 仕返しに不正と悪事をはたらいてここを出て行くならば […] ハデスの法が […] お前を好意的には迎えてはくれないだろう」(54c) と国法に語らせるように、正義しい生き方をするということに鑑みて、不正をなされることを避けることよりも自ら不正をなすことを避けることを重んじる。それゆえに、違法行為に対する応報としての刑罰を受けることで法に不正を働かないということは、内容的には不当に違法とされている行為に対する応報としてのそれを回避することに先行する。第二の水準においては、法の命じるところはつねにソクラテスの正義と一致することになる。

結論

 プラトンの対話篇におけるソクラテスの、法を守るということについての立場のひとつの可能な見方は、ソクラテスは法を正義しい生き方の実現として、またその限りで積極的なものとして守ったというものである。法に附随する刑罰は、死を恐れないソクラテスに対して、法を遵守させるための威嚇的抑止力としての役割を持つものではなかった。ソクラテスはまた、形式的には法に適っていても内容的には不当な違法判決のもとで、刑罰を受け容れながらも、不当な違法判決による以上はそれを単純に応報として受けるのでもない。ソクラテスにとって法とは、人間が受動的に適用を受けるものであるよりも、己自身が正しくあるために積極的に守られるものであったのではないか。

[FOOTNOTES]

参考文献

  1. プラトン(三嶋輝夫、田中享英訳)『ソクラテスの弁明・クリトン』講談社、1998.
  2. プラトン(納富信留訳)『ソクラテスの弁明』光文社、2012.
  3. Weiss, R. “Socrates dissatisfied : an analysis of Plato’s Crito,” Oxford University Press, 1998.
  1. 以下、『ソクラテスの弁明』『クリトン』からの引用はプラトン (1998) によった。